其の八 神々とともに「完成」の次元へ。


今回のアップは2018年4月8日です。

 

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20世紀末に生み出された『ストリートファイターⅢ3rd』は、世の終わりとはじまりを彷彿とさせられる印象があります。キャラによっては終末論や末法思想の世界を思わせられるエンディングもありますが、基本的には『Ⅲ3rd』は「NEW GENERATION」=「次世代」のタイトルどおり、次の世代につないでゆく未来への希望が託されたストーリーになっています。

 

ストリートファイターⅢ3rd OP
ストリートファイターⅢ3rd OP

 

 

主人公はリュウさんからアレックス君にバトンタッチしています。とはいえ、リュウさんはエンディングではかなりの頻度で登場しており、裏の主人公となっております。リュウさんは修行の旅を終え、次世代を育てる役割を担い、新たな次元に移行したのです。

 

 

日本人の目覚めにより、世界の人々が日本人に追随して(魂の)進化への旅がはじまるしくみです。日本人は世界の人々をサポートする役割があるのです。そのためには、一刻も早く日本人の身魂磨きが急がれます。

 

 

『ストⅤゼネラルストーリー』のラストに存在がほのめかされた『Ⅲ3rd』のラスボス・ギル様のセリフに「世界は灰色の未来を迎える。生と死、破壊と再生のバランスは均衡すべきなのだよ」とありますが、『Ⅲ3rd』ヒューゴーのエンディングでは灰色ではなく、ピンク色の未来を描いていることが見て取れます。しかも、ギル様も笑顔で参加しています。 

 

 

『ひふみ神示』でたびたび出てくる「上下グレンとひっくり返す」「世の建て替え」「うれしうれしの世」という文言が『Ⅲ3rd』のエンディングに刻印されていることに気づかされます。

 

 

注目すべきはリュウさんの会心の笑顔ですね。彼は『Ⅴゼネスト』で春麗さんとの出会いから魂が覚醒し、『Ⅲ3rd』ではすっかり角が取れたようです。リュウさんは「愛」にたどり着いたのです。以下は『Ⅲ3rd』エンディングより。

 

既存のピラミッド型支配体系の文明から

封印されてきた縄文神の復活により

世界をグレンとひっくり返して

横につながりあう和合の連合体を形成し

愛に目覚めた人々は、敵味方なくよろこびを分かち合い

女性を中心とした愛と感謝の世界を創造してゆくのです。


 

2018年からは、いよいよ総仕上げの段階に入りました。

 

 

まもなく三次元・高次元領域ともに新たな時空へ突入します。「完成」へと向かいます。

 

 

現代の人間界の価値観のままの意識では、新たな時空に共振することはできません。そのために現代の人間界の価値観=「自我意識」から宇宙共通の価値観=「統合意識」に変換する必要があるのです。

 

 

このことを神様は「身魂磨き」という言葉で示しておられます。また「上と下をひっくり返す」ということは、神と人の世界を入れ替えるということです。人が神の世界に移行するためには、自我があってはダメなのです。自我は人間界で作り上げた「幻想」です。幻想に囚われていたままでは神の世界に入ることはできません。

 

 

自我意識とは、五感のみで判断すること、善悪・概念・常識・批判・否定・偏見・反感・排除・損得・先入観・過去の経験・希望的観測などの分離意識で物事をとらえること、不安、怒り、恐怖、嫉妬、羨望、心配などの負の感情です。 

 

 

これらは四六時中自分の想念をスキャンしてチェックして拾い上げ、感謝に変換すると負のエネルギーは打ち消されます。

 

 

最初は慣れなくても、防犯カメラのごとく第三者の目となって自分の想念を客観的に見るくせをつけるとよいのです。

 

 

自分の身に起こることはすべて自分が原因であることを謙虚に受け入れ、洞察し、自我を見つけては気づかせていただきましたと感謝に変換することにより、結果を良化することができるのです。

 

 

結果の世界=現象=見える世界=限定的な可視光線の周波数領域(10^14㎐~10^15㎐)

 

原因の世界=意識=見えない世界=無限の不可視的周波数領域(ミクロ~マクロ)

 

 

目に見える世界がいかに狭い周波数であるかがわかります。このごく狭い周波数領域だけで物事の本質をとらえようとすることに無理があることは明白ですね。

 

  

地球の文化での波動の形態は磁気波、電磁波、物質波の3種類しか理解されていませんが、宇宙には10^65万種類以上の形態が存在し、それぞれ役割が違うそうです。『波動の法則』より

 

 

自分の外界に現れているホログラムの(目に見える)世界は表(結果)の世界で、自分の意識の世界が裏(原因)の世界です。これをまず知ることが大事です。見えない意識の世界を知らなければ、結果の世界を変えることはできないからです。

 

 

縄文文明は、意識や精神が主たる世界でした。見えない世界で完全なる調和が原因の世界で保たれていましたから、結果の世界も大調和が実現していたのです。

 

 

一方、弥生文明は、物質が主たる世界です。見えない世界を無視した世界が、現在の世界です。結果だけで原因を無視(排除)しているため、あらゆる分野で行き詰ってしまっています。

 

 

弥生文明末期の現在に必要なのは、縄文遺伝子を受け継いだ日本人の縄文のスピリットを目覚めさせて極度に偏った弥生文明と縄文スピリットを融合させること。すなわち自我意識を統合意識に変換することです。ただし・・・。

 

 

ダルシム師 「おぬしの心には波一つない。しかし、抑え込むだけでは、いずれ波に呑まれる。今一度、おぬしが秘める波動に向き合うがよい」

 

リュウさん 「向き合う・・・」 

 

 

自我を抑えこむことは変換することではありません。自我を抑えるということは抑圧、我慢、見て見ぬふりをすることになりますから、不調和のままなのです。

 

 

自我を抑えるのではなく、あらゆる感情をいったん受け容れ、感謝に変換することが重要なのです。「気づいて感謝、気づいて感謝」の繰り返しです。この内的作業なくして進化へ道を歩むことはできません。

 

 

「私にはまだ自我が残っています。そのことに気づいて謙虚に受け容れ、感謝に変換し進化してまいりますので、高次元の方々、今の私にかないましたサポートをよろしくお願い申し上げます」と発振するのです。言葉・思いでも可です。

 

 

そうすれば、見えない世界で人類の進化を待ちわびておられる高次元の方々がサポートしてくださいます。

 

 

あなたの波動が上がってゆけばゆくほど、サポートされる高次元の方も代わってゆかれます。

 

 

宇宙には自分よりも下の段階の存在をサポートするというしくみになっています。そしてそれはミクロからマクロまで、すべてにしくみが行きわたっています。

 

 

そして宇宙には「奪う」ことと「支配」してはならないという決まりがあるのです。

 

 

この地球がいかに「奪い」「支配」され「不調和」の限りを尽くし「進化が遅れた」牢獄なような惑星であるかに気づいたら、その時点で自ら人生の指針を選択することが可能です。

 

 

誰かの支配下で常にコントロールを受けて生き続けるのか、自らの意思で人生を創造してゆくのか。

 

 

そして意識変換し進化への道を選択するのも、このまま何も変わらないままでいることも自由なのです。

 

 

ここまで読み進まれた方は、進化への道を迷わず選択されますことでしょう。ここに記したことは基本ですが、基本は全宇宙共通の根本の原理です。

 

 

愛への道は、忍耐です。(我慢のエネルギーではありません)神様をはじめとした高次元の方々も忍耐されて人類の進化を待ってくださっているのです・・・。何千年も何万年も・・・。


さくら (筆者撮影)
さくら (筆者撮影)

 

富士の巻 

 

第四帖 (八四)

 

 

一二三(ひふみ)の仕組が済みたら

 

三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、

 

世の本の仕組は


三四五の仕組から

 

五六七(みろく)の仕組となるのぞ、

 

五六七の仕組とは

 

弥勒(みろく)の仕組のことぞ、

 

獣と臣民とハッキリ判りたら、

 

それぞれの本性出すのぞ、

 

今度は万劫末代のことぞ、

 

気の毒出来るから


洗濯大切と申してあるのぞ。

 

今度お役きまりたら


そのままいつまでも続くのざから、

 

臣民よく


この神示(ふで)よみておいて呉れよ。

 

八月十三日、 のひつくのか三。

 

 


 

天つ巻 

 

第三帖 (一一〇)

 

 

一日のひのまにも

 

天地引繰り返ると申してあろがな、

 

ビックリ箱が近づいたぞ、

 

九、十に気附けと、

 

くどう申してあろがな、

 

神の申すこと

 

一分一厘ちがはんぞ、

 

ちがふことなら

 

こんなにくどうは申さんぞ、

 

同じことばかり繰り返すと

 

臣民申して居るが、

 

この方の申すこと

 

みなちがってゐることばかりぞ、

 

同じこと申していると思ふのは、

 

身魂曇りてゐる証拠ぞ。

 

改心第一ぞ。

 

八月三十一日、一二 。

 

 


 

地つ巻  

 

第二十一帖 (一五八)

 

 

神界のことは顕界では

 

なかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、

 

神界のこと分るのであるぞ。

 

 

一に一足すと二となると云ふ

 

ソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。

 

今までの戦でも、

 

神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、

 

あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、

 

臣民からは阿房に見えても、

 

素直な人には神がかかり易いのであるから、

 

早う素直に致して呉れよ。

 

海のつなみ気をつけて呉れ、

 

前に知らしてやるぞ。

 

九月二十五日、ひつ九のか三。

 

 


 

キの巻 

 

第四帖 (二六一)

 


 カミの大事の肝腎の所が違ふた事になりてゐるから、

 

其の肝腎要(かんじんかなめ)の所


元に戻さな何程人間が、

 

いくら学や智でやりてもドウにもならんぞ、

 

元の先祖の神でないと、

 

此処と云ふ所 出来んぞ、

 

神の国の元の因(もと)の


キのミタマを入れて


練り直さな出来んのざぞ、

 

肝腎がひっくり返りてゐるぞ、

 

早う気付かんと、

 

間に合はんぞ、

 

もちと大き心持ちなされよ、

 

世界の事ざから、

 

世界の御用ざから、

 

大き心でないと御用出来んぞ。

 

 

これからは


神が化けに化けて


心引くことあるから


其のつもりでゐて呉れよ、

 

三、四月気付けて呉れよ。

 

三月九日、ひつ九の神ふで。

 

 

さくら (筆者撮影)
さくら (筆者撮影)

 

空の巻 

 

第十二帖

 


 学の鼻高さん

 

何も出来んことになるぞ、

 

今に世界から正真(しょうまつ)が段々判り来て、

 

あわてても間に合はんことになるぞ、

 

今の内に神示よく肚に入れておけよ、

 

この道には色々と

 

神の試(ためし)あるから

 

漫心するとすぐひっくり返るぞ、

 

考へでは判らん、

 

素直結構ぞ。

 

日本には

 

五穀、

 

野菜、

 

海、

 

川、

 

いくらも弥栄の食物あるぞ、

 

人民の食物 間違へるでないぞ、

 

食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、

 

いくら大切な、

 

因縁の臣民でも

 

仕組の邪魔になると取り替へるぞ、

 

慢心取違ひ致すなよ、

 

代へ身魂いくらでもあるぞ。

 

 

学問の世はすみたぞ、

 

学者は閉口するぞ、

 

商売の世も済みたから

 

商売人も閉口するぞ、

 

力仕事は出来んし、

 

共喰するより他に道ない

 

と申す人民許りになるぞ、

 

今迄とはさっぱり物事変るから

 

今迄のやり方 考え方 

 

変へて呉れよ、

 

神示通りに行へば

 

其の日その時から嬉し嬉しざぞ、

 

此処は落した上にも落しておくから、

 

世の中の偉い人には

 

中々見当とれんから、

 

身魂の因縁ある人には

 

成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ、

 

九の花咲けば皆よくなるのぞ、

 

九の花中々ぞ。

 

三月三日、ひつ九のかミ。

 

 


 

青葉の巻 

 

第十帖

 

 

 よき神にはよき御用、

 

悪き神には悪き御用、

 

自分で自分がつとめあげるのぢゃ、

 

人になんと云はれても


腹の立つ様では


 御用六ヶ敷いぞ、

 

腹立つのは慢心ぢゃと申してあろがな。

 

 

仕組途中でグレンと変り、

 

カラリと変る仕組してあるのぢゃ、

 

其処に一厘の仕組、

 

火水の仕組、

 

富士と鳴門の仕組、

 

結構々々大切致してあるのぢゃ。

 

 

仕組変り変りて


人民には判らんなり、

 

よき世と致すのぢゃ、

 

いくら智あっても


人間心では出来ん仕組ぞ、

 

智捨てて神にすがりて来ねば


分らん仕組ぢゃ、

 

と云ふて人間世界は


人間の智いるのぢゃ、

 

智でない智を神が与へるぞ、

 

神人共にと申してあろがな、

 

つとめ上げたら他にない結構な御用。

 

八月三日、ひつ九 。

 

 


 

黄金の巻 

 

第六十八帖

 


神と人の和は

 

神よりなさるものであるぞ。

 

本質的には

 

人間から神に働きかけるものでないぞ。

 

働きかける力は

 

神から出るのであるから

 

人間から和し奉らねばならんのであるぞ。

 

信じ合ふ一人が出来たら

 

一つの世界を得たこと。

 

一つ得たら二つになったことぞ。

 

祈りを忘れることは、

 

神を忘れること、

 

神から遠ざかること、

 

それではならんのう。

 

安全な道通れ。

 

安全な教の所へ集まれよ。

 

(十二月十四日)

 

 


 

黄金の巻 

 

第八十七帖



 まことに改心出来たと、

 

神が見届けたら、

 

今度はこの世はもとより、

 

何の心配もないやうに守って、

 

肉体、顔まで変へてやるぞ。

 

宿命と運命は同じでない。

 

磨けばどんなにでも光るぞ。

 

放っておいても

 

神に背くものは

 

自滅して行き、

 

従ふものは

 

弥栄えて行くぞ。

 

其処に神の能(ハタラキ)、

 

よくさとりて下されよ。

 

人間の処理方法と

 

神の処理方法と

 

融和せねばならん。

 

急がねばならず、

 

急いでは谷底に落ちて出来損なふぞ。

 

ありとあるもの、

 

何んでも彼んでも

 

天地の御用持ってゐるのぞ。

 

そのものの勝手な道は許さんぞ。

 

大き喜びの中に、

 

小さい自分の喜び大きく栄えるぞ。

 

大きな生命の中にこそ

 

小さい自分のマコトの喜びが

 

弥栄えるのであるぞ。

 

判りたか。

 

(一月三日)

 

     


 

黒鉄の巻

 

第三十七帖

 


 宇宙は人間の心のままと申してあらうが。

 

宇宙は未完成のものと申してあらうが。

 

永遠に未完成であり、

 

弥栄であるぞ。

 

そこに生命あり、

 

喜びあるのぢゃ。

 

大神の中で、

 

宇宙はなりなりてゐるのであるから、

 

ナリ、

 

永遠になるのであるぞ。

 

不変の中に千変万化、

 

自由自在の存在を与へてあるのぢゃ。

 

(旧九月八日)

 

 

みずな(筆者撮影)
みずな(筆者撮影)

 

春の巻

 

第十三帖

 


 自分はよいが、

 

世の中が悪いのぢゃと申しているが、

 

その自分省みよ。

 

自分が神の理(ミチ)にあり、

 

真実であるならば、

 

世の中は悪くないぞ。

 

輝いているぞ。

 

自分にふりかかって来る一切のものは

 

最善のものと思へ。

 

如何なる悪いことも

 

それは最善のものであるぞ。

 

この道理よくわきまへて下されよ。

 

真の神を理解すれば、

 

一切の幸福 得られるのぢゃ。

 

世を呪ふことは

 

自分を呪ふこと、

 

世間や他人を恨むことは

 

自分を恨むこと。

 

このこと悟れば

 

一切はそこからひらけくるぞ。

 

十のもの受けるには十の努力。

 

 


 

春の巻

 

第十六帖

 


あなたまかせ、

 

よい妻と申してあろうが。

 

神まかせがよい人民であるぞ。

 

この神とみとめたら理解して、

 

マカセ切れよ。

 

太元の神さまにホレ参らせよ。

 

真の信仰の第一歩ぞ。

 

雨降らば雨を、

 

風ふけば風を、

 

一先づ甘受せよ。

 

甘受した後、

 

処理して行かなならん。

 

受けいれずに


ハネ返すのは大怪我のもと。

 

何回でも何回でも


同じことくりかえさねばならんことになるぞ。

 

何か迫り来るのは、

 

何か迫り来るものが


自分の中にあるからぞ。

 

内にあるから


外から迫るのぢゃ。

 

自分で呼びよせているのぢゃ。

 

苦しみの神、

 

因果の神 呼んでおいて、

 

不足申している者 多いのう。

 

自分で呼びよせながら嫌がって


ハネ返すテあるまいにのう。

 

同じものでも


表からと裏からとでは違ふのぢゃ。

 

同じ目で見ても、

 

ちがってうつるのぢゃ。

 

心得よ。

 

     


 

秋の巻

 

第二十一帖

 


 和が根本、

 

和がよろこびぞ。

 

和すには神を通じて和すのであるぞ。

 

神を通さずに、

 

神をなくして通づるのが悪和合。

 

神から分れたのであるから神に帰って、

 

神の心に戻って和さねばならん道理。

 

神なくして和ないぞ。

 

世界平和と申してゐるが、

 

神にかへって、

 

神に通じねば和平なく、

 

よろこびないぞ。

 

十二の玉を十まで生んで、

 

後二つ残してあるぞ。

 

 

元伊勢籠神社(筆者撮影)
元伊勢籠神社(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第十三帖

 

 

 木にも竹にも石にも道具にも
 
それぞれの霊が宿ってゐるのである。
 
人間や動物ばかりでなく、
 
総てのものに宿ってゐるのである。
 
宿ってゐると云うよりは、
 
霊と体とで一つのものが
 
出来上がってゐるのである。
一枚の紙の裏表のようなもの、
表ばかりのものもない。
裏ばかりのものもない道理。
 
数字にも文字にも 
 
それぞれの霊が宿って居り、 
それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。
順序が判れば初段、
 
和に徹すれば名人。

 

月光の巻

 

第二十五帖



 食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。

 

霊の栄養大切。

 
 自分と自分と和合せよと申してあるが、

 

肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、

 

も一段奥の魂と和合せよ。

 

更に、又奥の自分と和合せよ。

 

一番奥の自分は神であるぞ。

 
 高い心境に入ったら、

 

神を拝む形式はなくともよいぞ。

 

為すこと、

 

心に浮ぶこと、

 

それ自体が礼拝となるからぞ。

 
 山も自分、

 

川も自分、

 

野も自分、

 

海も自分ぞ。

 

草木動物 悉く自分ぞ、

 

歓喜ぞ。

 

その自分出来たら

 

天を自分とせよ。

 

天を自分にするとは

 

ムにすることぞ。

 

〇に化すことぞ。

 

ウとムと組み組みて

 

新しきムとすることぢゃ。

 

 


 

月光の巻

 

第二十七帖



 はらひは結構であるが、

 

厄はらひのみでは

 

結構とはならんぞ。

 

それは丁度、

 

悪をなくすれば

 

善のみの

 

地上天国が来ると思って、

 

悪をなくすることに

 

努力した結果が、

 

今日の大混乱を来したのと

 

同じであるぞ。

 
 よく考えて下されよ。

 

善と申すも悪と云うも、

 

皆悉く大神の肚の中であるぞ。

 

大神が許し給へばこそ

 

存在してゐるのであるぞ。

 

この道理をよく会得せよ。 


はらふと申すのは

 

無くすることではないぞ。

 

調和することぞ。

 

和して弥栄(いやさか)することぞ。

 

元伊勢籠神社(筆者撮影)
元伊勢籠神社(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第三十帖

 


 心のいれかへせよとは


新しき神界との


霊線をつなぐことぞ。

 

そなたは我が強いから、

 

我の強い霊界との交流が


段々と強くなり、

 

我のむしが生れてくるぞ。

 

我の病になって来るぞ。

 

その病は自分では判らんぞ。

 

わけの判らん虫わくぞ。

 

わけの判らん病はやるぞと申してあるが 


そのことぞ。

 

肉体の病ばかりでないぞ。

 

心の病はげしくなってゐるから


気付けてくれよ。

 

人々にもそのことを知らせて


共に栄えてくれよ。

 

この病を治すのは、

 

今日までの教では治らん。

 

病を殺して了ふて、

 

病をなくしようとて


病はなくならんぞ。

 

病を浄化しなければならん。

 

悪を殺すと云う教や、

 

やり方ではならんぞ。

 

悪を抱き参らせて下されよ。

 

 


 

月光の巻

 

三十一帖

 


 足のうらをきれいに掃除なされよ。

 

外から見えん所がけがれてゐるぞ。

 

日本の国よ、

 

そなたも同様、

 

世界よ、

 

そなたも同様ぞ。

 

イヅモの神の社をかへて

 

竜宮の乙姫(理由空云の音秘)様のお社を

 

陸(理空)につくらねば、

 

これからの世は

 

うごきとれんことになるぞ。

 

一切が自分であるぞと云うことは

 

例へでないぞ。

 

そなたは、

 

食物は自分でないと思うてゐるが、

 

食べるとすぐ自分となるでないか。

 

空気も同様、

 

水も同様ぞ。

 

火も同様、

 

大空もそなたぞ。

 

山も川も野も海も、

 

植物も動物も同様ぞ。

 

人間は横の自分ぞ。

 

神は縦の自分ぞ、

 

自分を見極めねばならん。

 

自分をおろそかにしてはならん。

 

一切をうけ入れねばならんぞ。

 

一切に向って

 

感謝しなければならんと申してあろうが。

 

三十一年一月三日。

 

 


 

月光の巻

 

第三十六帖

 


 行は、

 

世界中の行、

 

誰一人のがれるわけには行かんぞ。

 

めぐり果たしたものから、

 

うれしうれしになる仕組。

 

そなたの心配 


一応は無理ないなれど、

 

何処で、

 

どんなことをしてゐても、

 

みたま磨けてさへ居れば、

 

心配なくなるぞ。

 

心配は、

 

磨けて居らぬ証拠ぞ。

 

そなたはものに


不足するとこぼして御座るなれど、

 

ものに不足するのは、

 

心に足らぬ所があるからぞ。

 

心いたれば 


ものいたるぞ。

 

何ごとも神の申す通り


素直になされよ。

 

素直結構ぢゃなあ。

 

 

元伊勢籠神社(筆者撮影)
元伊勢籠神社(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第三十八帖

 


 はじめの喜びは食物ぞ。

 

次は異性ぞ。

 

何れも大きな驚きであろうがな。

 

これは和すことによって起るのぞ。

 

とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。

 

よろこびは神ぢゃ。

 

和さねば苦となるぞ。

 

かなしみとなるぞ。

 

先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。

 

そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。

 

ぢゃがこれは外の喜び、

 

肉体のよろこびぞ。

 

元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。

 

その大きな喜びを与へてあるのに、

 

何故 手を出さんのぢゃ。

 

その喜び、

 

おどろきを何故に求めんのぢゃ。

 

何故に神示を食べないのか。

 

見るばかりではミにつかんぞ。

 

よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。

 

喜びが神であるぞ。

 

次には神との交わりぞ。

 

交流ぞ。

 

和ぞ。

 

そこには且って知らざりし


おどろきと大歓喜が生れるぞ。

 

神との結婚による


絶対の大歓喜あるのぢゃ。

 

神が霊となり


花むことなるのぢゃ。

 

人民は


花よめとなるのぢゃ。

 

判るであろうが。

 

この花むこは


いくら年を経ても


花よめを捨てはせぬ。

 

永遠につづく結びぢゃ。

 

結婚ぢゃ。

 

何ものにも比べることの出来ぬ


おどろきぞ。

 

よろこびぞ。

 

花むこどのが


手をさしのべてゐるのに、

 

何故に抱かれんのぢゃ。

 

は理屈では判らん。

 

夫婦の交わりは説明出来まいがな。

 

神が判っても交わらねば、

 

神ととけ合はねば


真理は判らん。

 

なんとした結構なことかと


人民びっくりする仕組ぞ。

 

神と交流し


結婚した大歓喜は、

 

死を越えた永遠のものぞ。

 

消えざる火の大歓喜ぞ。

 

これがまことの信仰、

 

神は花嫁を求めて御座るぞ。

 

早う神のふところに抱かれて下されよ。

 

二月一日。

 

 



月光の巻

 

第四十帖

 


判らんことは

 

神示にきくがよいぞ。

 

遠慮いらん。

 

そなたは一足飛びに

 

二階に上がりたい気持がぬけない。

 

何事も一段ずつ、

 

一歩づつ進まねばならん。

 

それより他に進み方はないのぢゃぞ。

 

先づそなたの中にゐる

 

けだものを言向け合さねばならんぞ。

 

よく話し、

 

教へ、

 

導かねばならん。

 

けものを

 

人間と同じにしようとしてはならん。

 

けものはけものとして

 

導かねばならん。

 

金は金。

 

鉛は鉛ぞ。

 

鉛を金にしようとしてはならん。

 

鉛は鉛として磨かねばならんぞ。

 

浄化とはそのこと。

 

世は七度の大変り、

 

いよいよの段階に入ったら、

 

何が何だか、

 

われよしの人民には

 

いよいよ判らなくなり、

 

あせればあせる程

 

ふかみに落ち込むぞ。

 

心の窓を大きくひらいて、

 

小さい我の慾をすてると、

 

遠くが見えてくるのぢゃ。

 

見えたら先づ自分の周囲に

 

知らせねばならん。

 

知らすことによって

 

次の道がひらけてくるのぢゃ。

 

自分だけでは

 

うれしうれしとならん。

 

うれしくないものは

 

弥栄しないぞ。

 

冬になったら冬ごもりぞ。

 

死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。

 

遊ぶ時は遊ぶがよいぞ。

 

コト=言(光透)と、

 

時と、

 

その順序さへ心得て御座れば、

 

何をしても、

 

何を話しても、

 

何を考へてもよいのぢゃ。

 

 

外宮大元宮吉佐宮(筆者撮影)
外宮大元宮吉佐宮(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第四十六帖

 

 

考えてゐては

 

何も成就せんぞ。

 

神界と交流し、

 

神界に生き、

 

神界と共に

 

弥栄すればよいのぢゃ。

 

人間だけの現実界だけで

 

処理しようとするのが

 

今迄の考えぢゃ。

 

今迄の考えでは

 

人間の迷ひぞと申してあろうがな。

 

迷ひを払って

 

真実に生きよ。

 

みたましづめぢゃ。

 

加実しづめぢゃ。

 

そなたは信仰のありかたを知らんぞ。

 

長い目で永遠の立場からの幸が、

 

歓喜がおかげであるぞ。

 

局部的一時的には 

 

いやなことも起ってくるぞ。

 

天地を信じ、

 

自分を知り、

 

人を理解する所にこそ

 

まことの弥栄あるぞ。

 

だますものには

 

だまされてやれよ。

 

一先づだまされて、

 

だまされんように

 

導いて下されよ。

 

そなたはそんな場合に

 

我を出すからしくじるのぞ。

 

だまされてやろうとするから

 

カスが残るのぞ。

 

まことに

 

だまされる修業が大切ぢゃなあ。

 

 


 

月光の巻

 

第四十八帖

 


 世界中を泥の海にせねばならんところまで、

 

それより他に道のない所まで


押しせまって来たのであるが、

 

尚一厘のてだてはあるのぢゃ。

 

大神様におわび申して


すっかり心を改めて下されよ。

 

神々さまも


人民さまも


心得ちがひ多いぞ。

 

泥の海となる直前に


グレンとひっくりかえし、

 

びっくりの道あるぞ。

 

 


 

月光の巻

 

第四十九帖

 


 そなたの用意が足らんぞ。

 

日々の人間の御用を、

 

神の御用と和すように、

 

神の御用が人の御用、

 

人の御用が神の御用となるのが


まことの道であり、

 

弥栄の道であり


大歓喜であるぞ。

 

いつでも神かかれるように


神かかってゐるように、

 

神かかっていても、

 

われにも他にも


判らぬようになりて下されよ。

 

鍬とる百性が己をわすれ、

 

大地をわすれ、

 

鍬をわすれてゐる境地が、

 

まことのみたましづめであり、

 

神かかりであるぞ。

 

そこらでなさる行も、

 

それに到る一つの道ではあるが、

 

それのみではならんぞ。

 

気つけ合って


よきに進んで下されよ。

 

そなたが歩むのぢゃ。

 

道は自分で歩まねばならんぞ。

 

他人におんぶしたり、

 

他人が歩かしてくれるのではないぞ。

 

そなたの力で、

 

そなた自身の苦労で


人を助けねばならんぞ。

 

人を助ければ


その人は


神が助けるのであるぞ。

 

この道理なぜに判らんのぢゃ。

 

人を助けずに


我を助けてくれと申しても、

 

それは無理と申すもの。

 

神にも道はまげられんぞ。

 

 

真名井神社参道(筆者撮影)
真名井神社参道(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第五十帖

 


 何も六ヶ敷いこと申すのではない。

 

自分の、

 

内の自分を洗濯して


明らかに磨けばよいのぢゃ。

 

内にあるものを浄化すれば、

 

外から近づくものがかわって来る道理。

 

内の自分を洗濯せずにゐて、

 

きたないものが近づくとか、

 

世の中がくらいとか


不平申して御座るなれど、

 

そこにそなたの間違いがあるぞ。

 

木でも草でも


中から大きくなって行くのぢゃ。

 

三千年に一度の時が


 めぐり来てゐるのであるぞ。

 

為せば成る時が来てゐるのぢゃ。

 

為さねば後悔ぞ。

 

時すぎて種まいても、

 

くたびれもうけ。

 

そなたは世の中が悪いとか


人がよくないとか申してゐるが、

 

すべては大神の肚の中にゐて、

 

一応


大神が許しなされて居ればこそ存在し、

 

いのちしてゐるのであるぞ。

 

悪くうつるのは


心のかがみがくもってゐるからぞ。

 

悪い世の中、

 

悪い人と申すことは、

 

神を悪く申し、

 

神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。

 

新しき世界には


新しき【てんし(天詞)てんか】を


こしらえねばならん。

 

このこと間違えるでないぞ。

 

珍らしき御型(方)が出て来て


びっくりぢゃ。

 

びっくりしなければ


ヒックリとはならんぞ。

 

神は今迄


化けに化けていたが、

 

もう化けては居られん。

 

人民ももう化けては居られんぞ。

 

九分九厘までは化けて、

 

がまんしてゐたなれど、

 

化けの世、

 

方便の世、

 

方便の教はすんだのぢゃ。

 

教では世は正されん。

 

教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。

 

無理してはならん。

 

そなたの無理押しは


よいことをわるく曲げるぞ。

 

 


 

月光の巻

 

第五十一帖

 


 世界を一つにするのであるから、

 

王は(秘答理)(ヒトリ)ぢゃ。

 

うごぎは二つとなるなれど、

 

二つでないとうごかんのぢゃ。

 

キはキのうごき、

 

ミはミのうごき、

 

うごいて和すのぢゃぞ。

 

和すから弥栄ぢゃ。

 

和せば一つぢゃぞ。

 

キミとなるのぢゃ。

 

そなたは自分と

 

他との境界をつくってゐるなれど、

 

境界つくってはならんぞ。

 

境界をつくらずに、

 

おのづからなる

 

自他の別を生み出さねばならんぞ。

 

世界一家のやり方

 

間違えて御座るぞ。

 

それぞれのコト(言)のハ(葉)はあれど、

 

ミコト(実言)は一つと申して知らしてあろうがな。

 

大難は小難にすること出来るのであるが、

 

無くすることは出来んぞ。

 

不足は不足をうむぞ。

 

そなたは口をつつしめよ。

 

そなたは一度

 

 神をすてよ。

 

神にしがみついてゐるから、

 

小さい囚われた、

 

ゆとりのない神を、

 

そなたがつくり上げてゐるぞ。

 

信ずれば信ずる程 

 

危ないぞ。

 

大空に向って大きく呼吸し、

 

今迄の神をすてて

 

心の洗濯をせよ。

 

神を信じつつ

 

迷信におちてゐると申してあること、

 

よく心得よ。

 

     


 

月光の巻

 

第五十二帖

 


そなたは

 

つまらんことに

 

いつも心を残すから 

 

つまらんことが

 

出てくるのであるぞ。

 

心を残すと云うことは、

 

霊界とのつながりがあることぞ。

 

つまらん霊界に

 

いつ迄くっついてゐるのぢゃ。

 

何ごとも

 

清めて下されよ。

 

清めるとは

 

和すことであるぞ。

 

同じもの同士では和ではない。

 

違ったものが

 

和すことによって

 

新しきものを生むのであるぞ。

 

奇数と偶数を合せて、

 

新しき奇数を生み出すのであるぞ。

 

それがまことの和であり清めであるぞ。

 

善は悪と、

 

陰は陽と和すことぢゃ。

 

和すには同じあり方で、

 

例へば五と五との立場で和すのであるが、

 

位に於ては陽が中心であり、

 

陰が外でなければならん。

 

天が主であり地が従でなければならん。

 

男が上で女が下ぢゃ、

 

これが和の正しきあり方ぞ。

 

さかさまならんぞ。

 

これを公平と申すぞ。

 

口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。

 

心と行が伴はねばならん。

 

判りきったこの道理が行はれないのは、

 

そなたをとり巻く

 

霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。

 

そなたの心の大半を

 

幽界的なもので占めてゐるからぞ

 

己自身のいくさ

 

 まだまだと申してあろうがな。

 

このいくさ中々ぢゃが、

 

正しく和して早う

 

弥栄結構ぞ。

 

そなたのもつ悪いくせを

 

治して下されよ。

 

そのくせ治すことが御神業ぞ。

 

自分で世界を建直すような

 

大きこと申して御座るが、

 

そなたのくせを治すことが

 

最も大切な御用でないか。

 

これに気がつかねば落第ぞ。

 

おそれてはならん。

 

おそれ生むからぞ。

 

喜べ、

 

喜べ、

 

喜べばよろこび生むぞ。

 

喜びは神ぢゃ。

 

神様御自身も

 

刻々弥栄して御座るぞ。

 

故にこそ生長なされるのぢゃ。

 

人間も同様でなくてはならん。

 

昨日の自分であってはならん。

 

今の自分ぞ。

 

中今のわれに生きねばならん。

 

われにどんな力があったとて、

 

我を出してはならんぞ。

 

我を出すと力なくなるぞ。

 

我を、

 

大き我に昇華させよ。

 

大我にとけ入らねばならん。

 

大我にとけ入ったとて、

 

小我がなくなるのではないぞ。

 

人おろがめよ。

 

物おろがめよ。

 

おろがむと自分の喜びとなり、

 

拝まれたものも喜びとなるぞ。

 

うれしうれしとはそのことぞ。

 

     

真名井神社参道(筆者撮影)
真名井神社参道(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第五十四帖

 


 頭を下げて見なされ、

 

流れて来るぞ。

 

頭も下げず

 

低くならんでゐては

 

流れては来ないぞ。

 

神のめぐみは

 

淡々とした水のようなものぞ。

 

そなたは頭が高いぞ。

 

天狗ぞ。

 

その鼻まげて

 

自分のにほひをかいで見るがよい。

 

そなたは左に傾いてゐるぞ。

 

左を見なければならんが、

 

片よって歩いてはならんぞ。

 

そなたは右を歩き乍ら、

 

それを中道と思って御座るぞ。

 

そなたは平面上を行ってゐるから、

 

中道のつもりで、

 

他に中行く道はないと信じてゐるが、

 

それでは足らんのう。

 

立体の道を早うさとりなされよ。

 

【正中の大道】あるのであるぞ。

 

左でもなく右でもなく、

 

うれしうれしの道あるぞ。

 

左も右も上も下も

 

相対の結果の世界ぢゃ。

 

原因の世界に入らねばならん。

 

平面より見れば相対あるなれど、

 

立体に入り更に複立体、

 

複々立体、

 

立立体の世界を知らねばならんぞ。

 

相対では争ひぢゃ。

 

いくさぢゃ。

 

真の世界平和は

 

今のやり方、

 

考へ方では

 

成就せんぞ。

 

三千世界和平から

 

出発せねばならんぞ。

 

そなたは神示をよくよんでゐるが、

 

それだけでは足らん。

 

神示を肚に入れねばならん。

 

つけ焼刃ではならん。

 

神示を血とし生活とすれば、

 

何事も思ふ通り

 

スラリスラリと面白い程 

 

栄えて来るぞ。

 

思ふように運ばなかったら省みよ。

 

己が己にだまされて、

 

己のためのみに

 

為してゐることに気づかんのか。

 

それが善であっても、

 

己のためのみならば死し、

 

善のための善ならば弥栄えるぞ。

 

善にも外道の善あるぞ。

 

心せよ。

 

神示見て居らぬと

 

びっくりが出てくるぞ。

 

この世始まってないことが出てくるのぢゃ、

 

世界の片はし八まべからぞ。

 

判りたか。

 

そなたは神体を偶像と申して御座るが、

 

それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。

 

礼拝を忘れ、

 

祈りをわすれることは

 

神をわすれることぢゃ。

 

そなたの住む段階では、

 

祈り畏こみ謹んで

 

実践しなければならんぞ。

 

拝まんでも拝んでゐる境地は

 

なかなかぢゃなあ。

 

そなたはわれが助かろうとするから

 

助からんのぢゃ。

 

世界はこの世ばかりではないことを、

 

よく得心して下されよ。

 

我をすてて素直になされよ。

 

三千年の秋が来てゐるのであるぞ。

 

 

真名井神社(筆者撮影)
真名井神社(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第五十五帖

 


 そなたはよく肚をたてるが、

 

肚がたつのは慢心からであるぞ。

 

よく心得なされよ。

 

下肚からこみあげてくる怒りは

 

大きな怒りであるから、

 

怒ってよいのであるなれど、

 

怒りの現わし方を

 

出来るだけ小さく、

 

出来るだけ清く、

 

出来るだけ

 

短かくして下されよ。

 

怒りに清い怒りはないと、

 

そなたは思案して御座るなれど、

 

怒りにも清い怒り、

 

澄んだ怒りあるぞ。

 

三月三日。

 

 


 そなたはいつも

 

自分の役に不足申すくせがあるぞ。

 

そのくせ直して下されよ。

 

長くかかってもよいから、

 

根の音(ね)からの改心結構ぞ。

 

手は手の役、

 

足は足、

 

頭は頭の役、

 

それぞれに結構ぞ。

 

上下貴賎ないこと、

 

そなたには判ってゐる筈なのに、

 

早う得心して下されよ。


 そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。

 

縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。

 

今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。

 

真理に苦の花さくのであるぞ。

 

因縁のそなたぢゃ、

 

一聞いたなら十がわかるのぢゃ。

 

云われんさきに

 

判ってもらわねばならんぞ。

 

知らしてからでは味ないぞ。

 

十人並ぞ。

 

今度の御用は千人力、

 

十人並では間に合わんぞ。

 

人間の目は一方しか見えん。

 

表なら表、

 

右なら右しか見えん。

 

表には必ず裏があり、

 

左があるから右があるのぢゃ。

 

自分の目で見たのだから間違いないと、

 

そなたは我を張って居るなれど、

 

それは只一方的の真実であるぞ。

 

独断は役に立たんぞと申してあろうが。

 

見極めた上にも

 

見極めねばならんぞ。

 

霊の目も一方しか見えんぞ。

 

霊人には何でも判ってゐると思ふと、

 

大変な間違ひ起るぞ。

 

一方と申しても

 

霊界の一方と

 

現界の一方とは、

 

一方が違ふぞ。

 
 そなたは中々に立派な理屈を申すが、

 

理屈も必要ではあるが、

 

あわの如きもの、

 

そなたの財産にはならんぞ。

 

体験の財産は

 

死んでからも役にたつ。


 ざんげせよと申しても、

 

人の前にざんげしてはならんぞ。

 

人の前で出来るざんげは割引したざんげ。

 

割引したざんげは

 

神をだまし、

 

己をだますこととなるぞ。

 

悔ひ改めて下され。

 

深く省みて下され。

 

深く恥ぢおそれよ。

 

心して慎しんで下されよ。

 

直ちによき神界との

 

霊線がつながるぞ。

 

霊線つながれば、

 

その日その時からよくなってくるぞ。

 

気持が曲ったら

 

霊線が切り替えられる。

 

 


 

月光の巻

 

第五十六帖

 


 そなたは何時もあれもよいらしい、

 

これもよいようだと迷って、

 

迷ひの世界をうみ出し、

 

自分で自分を苦しめて、

 

気の毒よなあ。

 

これと一応信じたらまかせきれよ。

 

梶をはなして鳴門の渦の中にまかせきれよ。

 

まかせきるとひらけてくるのぢゃ。

 

悟れたようでゐて、

 

そなたが悟り切れんのはまかせきらんからぞ。

 


 そなたはいつも孤独、

 

そなたの不運は孤独からぢゃ。

 

友をつくりなさい、

 

友つくることは


己をつくることと申してあろうが。

 

友つくることは


新しき世界をつくることぞ。

 

一人の世界は知れたものぞ。

 

一人ではマコトの道を生きては行かれんぞ。

 

友と申しても人間ばかりではないぞ。

 

山も友、

 

川も友、

 

動物も植物も皆友ぞ。

 

大地も大空も皆友となるぞ。

 

何も彼も皆友ぢゃ、

 

皆己ぢゃ。

 

皆々己となれば


己はなくなるぞ。

 

己なくなれば


永遠に生命する無限の己となるのぢゃ。

 

御神前で拝むばかりでは狭いぞ。

 

野菜拝めば野菜が、

 

魚拝めば魚が


己となるのぢゃ。

 

拝むことは和すこと。

 

和すことが友つくる秘訣ぞ。

 

友を己とすることは、

 

己を友とすることぢゃ。

 

友にささげることぢゃ。

 

親は子にささげるからこそ、

 

子が親となるのぢゃ。

 

判りたか。

 

赤ん坊のお尻をふいてやることもあるであろうがな。

 

そなたが赤ん坊と同じであったら出来ない芸当ぞ。

 

お尻を出すものがあっても、

 

決して怒ってはならん。

 

子のお尻と思って


きれいにふいてやれよと申してあろうが。

 

お尻を持ち込まれるのは、

 

持ち込まれるだけのわけがあるからぞ。

 

利子は後から支払えばよいと、

 

そなたは思ってゐるが、

 

先に支払ふこともあるのであるぞ。

 

先にお尻をふかねばならんことも、

 

世が迫ってくると出てくるのぢゃ。

 

その代り、

 

後では神が


そなたのお尻をきれいにふいて下さるぞ。

 

ぶつぶつ申さずに


勇んでやって下されよ。


 そなたは


他にものを与えることに


心せねばならんぞ。

 

与えることは


頂くことになるのであるから、

 

与えさしてもらう


感謝の心がなければならんぞ。

 

強く押すと強く、

 

弱く押すと弱く


はねかえってくること、

 

よく知って居ろうがな。

 

自分のものと云ふものは


何一つないこと、

 

よく判って居る筈ぢゃ。

 

 


 

月光の巻

 

第五十七帖

 


 そなたは失業したから仕事を与えてくれと申してゐるが、

 

仕事がなくなってはおらんぞ。

 

いくらでもあるでないか。

 

何故に手を出さんのぢゃ。

 

そなたはすぐ金にならねば食って行けない、

 

金にならぬ仕事は出来ぬ、

 

自分はよいが妻子が可哀さうだから、

 

などと申してゐるが、

 

どんな仕事でも、

 

その仕事にとけ込まねば、

 

その仕事になり切らねばならんのに、

 

そなたは目の先の慾にとらわれ、

 

慾になり切って、

 

目の色を変えて御座るぞ。

 

それでは仕事にならん。

 

仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。

 

自分自身が仕事にならねばならん。

 

この道理さへ判れば、

 

失業はないぞ。

 

自分が仕事ぢゃからのう。

 

 

元伊勢籠神社(筆者撮影)
元伊勢籠神社(筆者撮影)

 

月光の巻

 

第六十一帖

 


 そなたの苦労は取越し苦労。

 

心くばりは忘れてならんなれど、

 

取越し苦労、

 

過ぎ越し苦労はいらん。

 

そうした苦労は、

 

そうした霊界をつくり出して、

 

自分自身がいらぬ苦労をするぞ。

 

何ごとも神にまかせよ。

 

そなたはまだ神業の取違ひして御座るぞ。

 

そなたの現在与えられてゐる仕事が神業であるぞ。

 

その仕事をよりよく、

 

より浄化するよう行じねばならんぞ。

 

つとめた上にもつとめねばならん。

 

それが御神業であるぞ。

 

そなたはそなたの心と口と行が違ふから、

 

違ふことが次から次へと折り重なるのぢゃ。

 

コト正して行かねばならんぞ。

 

苦を楽として行かねばならん。

 

苦と心するから苦しくなるのぢゃ。

 

楽と心すれば楽と出てくるのぢゃ。

 

ちょっとの心の向け方、

 

霊線のつなぎ方ぞ。

 

そなたは悪人は悪人ぢゃ、

 

神として拝めとは無理ぢゃと申してゐるが、

 

一枚の紙にも裏表あるぞ。

 

そなたはいつも裏ばかり見てゐるから、

 

そんなことになるのぢゃ。

 

相手を神として拝めば神となるのぢゃ。

 

この世は皆神の一面の現われであるぞ。

 

 


 

月光の巻

 

第六十二帖

 


 そなたは現実世界のことばかりより判らんから、

 

現実のことばかり申して、

 

一に一たす二だとのみ信じてゐるが、

 

現実界ではその通りであるが、

 

それが平面の見方、

 

考へ方と申すもの、

 

いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。

 

一に一たす一の世界、

 

一に一たす無限の世界、

 

超現実、

 

霊の世界、

 

立体の世界、

 

立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。

 

そなたは心をもって居ろうがな。

 

心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。

 

心で描いて、

 

心で先づつくり出してから行為することも、

 

その順序も判るであろうがな。

 

心のうごきが先で、

 

肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。

 

心の世界にないものは

 

物質の世界にない道理も判って居ろうがな。

 

何故に迷ふのぢゃ。

 

霊界が主で

 

現界が従であること、

 

判って下されよ。

 

逆立してそなた自身で苦しんでゐること、

 

早う得心して、

 

うれしうれしで暮して下されよ。

 

三月三日。

 

 


 

扶桑の巻

 

第十三帖

 


 称言(たたえごと) 

 

太祝詞(ふとのりと)こと 

 

今ぞ高らに。

 

 

 木でも草でも皆、

 

中から大きくなるのざと申してあろう、

 

つけ焼刃や膏薬はりで大きくなるのでないぞ、

 

三千年に一度と言ふ、

 

又とない結構な時がめぐりて来てゐるのであるぞ、

 

為せば成るぞ、

 

六ヶ敷いこと申してゐるのではない、

 

自分の中の自分を掃除して

 

自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、

 

みがけば神と同列のミタマぞ、

 

釈迦ぞ、

 

キリストぞと申してあろう。

 

内にあるものを磨けば

 

外からひびくものも磨かれた、

 

けがれのないものとなるのぢゃ、

 

中の自分を掃除しないで居るといつ迄たっても、

 

岩戸がひらけてゐても岩戸はひらけん。

 

 

元伊勢籠神社(筆者撮影)
元伊勢籠神社(筆者撮影)

 

扶桑の巻

 

第十五帖

 

 

  百不足(モモタラズ) 

 

八十隈手(ヤソクマデ)

 

 いまひらかんときぞ。

 

  天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、

 

時めぐり来て、

 

岩戸がひらけて、

 

判るようになったのぞ、

 

今迄の人民であってはならん、

 

地そのものが変ってゐるのであるぞ、

 

人民は我(ガ)が強いから

 

一番おくれてゐるのであるぞ、

 

人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、

 

神人(カミヒト)とならねば

 

生きては行かれんのぢゃ、

 

天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、

 

天も近うなるぞ、

 

地も近うなるぞと

 

気つけてありたのに

 

目さめた人民少ないぞ、

 

今に昇り降りで急しくなり、

 

衝突するものも出てくるぞ、

 

他人におんぶされたり、

 

車に乗せられてゐた人民たちよ、

 

もうその時は過ぎてゐるのであるから、

 

自分の足で歩まねばならんぞ、

 

大地をふみしめよ、

 

大地の気が身内に甦るぞ。

  

 



春の巻

 

第8帖 (665)

 


人民をほめること よいことぢゃ。

 

ほめて、その非をさとらせよ。

 

罪ゆるすことぢゃ。

 

もの生かすことぢゃ。

 

生かして使ふことぢゃ。

 

神示(フデ)ひろめることぢゃ。

 

やって見なされ。

 

必ずうれしうれしとなるぞ。

 

栄えるぞ。

 

嬉しくなかったら神はこの世に居らんぞよ。

 

神示は一本道ぢゃ。

 

始めからの神示よんで、

 

よく読んで見なされ。

 

何も彼もハッキリしてくるぞ。

 

神示うつして下されよ。

 

世界にうつすことよろこびぞ。

 

地に天国うつすことぞ。

 

六ヶ敷いことないぞ。

 

今の裏のやり方、

 

ひっくり返して表のやり方すれば、

 

それでよいのぢゃ。

 

裏は裏として生きるのぢゃぞ。

 

金は使ふもの。

 

使はれるものでないこと よく判って居らうが。

 

御苦労のことやめなされよ。

 

 


 

春の巻

 

第9帖 (666)

 

 

人民には分別与へてあるから

 

反省できるのであるぞ。

 

反省あるから

 

進展するのであるぞ。

 

ほっておいても、

 

いらんものは無くなり、

 

いるものは栄へるのであるが、

 

人民の努力によっては、

 

よりよくなるのぢゃ。

 

省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。

 

慾、浄化して喜びとせよ。

 

喜び何からでも生れるぞ。

 

広い世界に住めば広く、

 

深い世界に住めば深く向上する。

 

物の世界から霊の世界へ、

 

無限の世界へ入るから

 

無限の生命が与へられるのぢゃ。

 

無限の喜び得ること出来るのぢゃ。

 

無限世界とは物と霊との大調和した、

 

限りなき光の世界ぞ。

 

真理を知ることが、

 

無限を得ること。

 

まことの神をつかむことぞ。

 

よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。

 

ふところ手でいては出来ん。

 

手出せ、

 

足出せよ。

 

 

真名井神社(筆者撮影)
真名井神社(筆者撮影)

 

春の巻

 

第三十五帖

 


念じつつやれ。

 

神の為と念じつつやれば

 

神のためとなる。

 

小さい行為でも

 

霊的には大きはたらきするのぢゃ。

 

自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。

 

行き止まるのぢゃ。

 

われよしとなるのぢゃ。

 

調和が神の現れであるぞ。

 

霊と調和せよ。

 

肉体と調和せよ。

 

人と調和せよ。

 

食物、

 

住居と調和せよ。

 

世界と調和せよ。

 

うれしうれしぞ。

 

一生かかってもよいぞ。

 

おそくないのぢゃ。

 

自分の中のケダモノのため

 

直しにかからねばならん。

 

悪いくせ直さねばならん。

 

これが第一歩、

 

土台ぢゃぞよ。

 

 


よきことは 

 

人にゆづりて 

 

人をほめ 

 

人たてるこそ 

 

人の人なる。

 

敬愛の 

 

まこと心に 

 

まことのり 

 

まこと行ふ 

 

人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

 

 


 

春の巻

 

第四十三帖

 


与へよ、

 

与へよ、

 

与へよ、

 

与へる政治と申してあろうが。

 

戦争か平和かと

 

人民申してゐるなれど、

 

道はその二つでないぞ、

 

三が道と、

 

くどう申してあろう。

 

水の外道の武器と

 

火の外道の武器の他に、

 

新しき武器気づかんのか。

 

神示よく読めば示してあるのであるぞ。

 

ほかに道ないと

 

きめてかかるから判らんのざ。

 

生れ赤児になれば判るぞ。

 

知らしてやりたいなれど、

 

知らして判るのでは自分のものとならん。

 

自分が体得し、

 

自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。

 

つけ焼刃は危ない、

 

危ない。

 

気狂ひに刃物ぞ。

 

平面的考え、

 

平面生活から立体に入れと申してあろうがな。

 

神人共にとけ合ふことぞ。

 

外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。

 

善のみで善ならず。

 

悪のみで悪ならず。

 

外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。

 

夜明けの御用大切と申してあろうが。

 

外道の悪 殺すでないぞ。

 

抱き参らすから消えるのであるぞ。

 

 


 

五葉の巻

 

第十六帖

 


 マコトでもって洗濯すれば霊化される、

 

半霊半物質の世界に移行するのであるから、

 

半霊半物の肉体とならねばならん、

 

今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、

 

今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、

 

灰になる肉体であってはならん、

 

原爆も水爆もビクともしない

 

肉体となれるのであるぞ、

 

今の物質でつくった

 

何物にも影響されない

 

新しき生命が生れつつあるのぞ。

 

岩戸ひらきとはこのことであるぞ、

 

少し位は人民つらいであろうなれど

 

勇んでやりて下されよ、

 

大弥栄の仕組。

 

 

真名井神社(筆者撮影)
真名井神社(筆者撮影)

 

水の巻 

 

第二帖 (二七六)

 


 ひふみ、

 

よいむなや、

 

こともちろらね、

 

しきる、

 

ゆゐつわぬ、

 

そをたはくめか、

 

うおえ、

 

にさりへて、

 

のますあせゑほれけ。

 

一二三祝詞(ひふみのりと)であるぞ。

 

 

 

たかあまはらに、

 

かむつまります、

 

かむろぎ、

 

かむろみのみこともちて、

 

すめみおや

 

かむいざなぎのみこと、

 

つくしのひむかのたちばなの

 

おどのあはぎはらに、

 

みそぎはらひたまふときに、

 

なりませる、

 

はらえとのおほかみたち、

 

もろもろのまがこと

 

つみけがれを、

 

はらえたまへ

 

きよめたまへと

 

まおすことのよしを、

 

あまつかみ、

 

くにつかみ、

 

やほよろづのかみたちともに、

 

あめのふちこまの、

 

みみふりたてて

 

きこしめせと、

 

かしこみかしこみもまおす。

 

あめのひつくのかみ、

 

まもりたまへ

 

さちはへたまへ、

 

あめのひつくのかみ、

 

やさかましませ、

 

いやさかましませ、

 

一二三四五六七八九十

 

(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリ)。

 

旧三月十日、三のひつ九か三。

 

 


一(ひと)は霊(ひ)なり、火なり、日なり。


二(ふた)は力(ちから)なり、吹く呼吸(いき)なり。


三(み)は体(たい)なり。元素なり。


四(よ)は世界の世(よ)なり。


五(いつ)は出(いず)るなり。


六(むゆ)は燃(むゆ)るなり。


七(なな)は地(ち)成るなり。


八(や)は弥々益々(いよいよますます)の意なり。


九(ここの)は凝り固るの意なり。


十(たり)は完成の意なり。


百(もも)は諸々の意なり。


千(ち)は光なり、血汐(ちしお)の血なり。


万(よろづ)は夜(よ)出(いづ)るの意なり。

 



之を大括して略解すれば、

 

霊力体(れいりきたい)によって

 

世が発生し、

 

水火の呼吸(いき)燃え上り、

 

初めて地成り、

 

弥々益々水火の気凝り固りて

 

完全無欠の宇宙天界は完成され、

 

諸々の地の光は暗夜(あんや)に出現して

 

総てのものの目に入るといふ言霊にして、

 

造化三神の神徳を称へ奉り、

 

其の徳にあやかりて

 

紫微(しび)天界を

 

修理固成(しゅうりこせい)し、

 

諸神安住の清所(すがと)に照らさむとの意を

 

謳(うた)ひ給ひしものと知るべし。 

 

 

(『霊界物語』第73巻第10章・婚ぎの御歌より)